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西加奈子の「 円卓 」から考える小説の面白さ

西加奈子さんの小説に「円卓」は小学三年生の孤独な子供が色々と不思議な体験をする物語です。 このある意味では現代における教養小説ともいえる作品から、小説自体の持つ面白さを考えていきたいと思います。

「円卓」の作者、西加奈子について

西加奈子さんは日本の小説家です。しかし、生まれたのはイランのテヘランです。
2歳まではイランのテヘラン、小学校1年から5年生まではエジプトのカイロで生活を続けていました。それ以降は大阪で育ちました。なので彼女自身の性格は根っからの大阪人だそうです。
情報誌の「ぴあ」などでライターをしながら、一人で小説を書いている時期があり、一人で悦に入っていたそうですが、その小説を人に読ませて見た所「技術はあるが感情がない」と言われ「描きたくなるまで貯めないとだめだ」と勧められるまま半年ほど断筆したそうです。
その後、閃いたイメージのそのまま、書き上げたのが「あおい」という作品でした。
西さんは「あおい」は活字にしなければならないと出版社に駆け込みました。その結果「世界の中心で、愛を叫ぶ」の編集者の目に留まり、文壇デビューを果します。
その後いくつも小説を書きあげて、2007年には「通天閣」で尾田作之助賞大賞を受賞。2011年には咲くやこの花賞を受賞しています。
2013年には「ふくわらい」で第148回直木三十五賞候補になり、第10回本屋大賞5位、第1回河合隼雄物語賞を受賞をして、多くの人に知られるようになりました。
2015年には「サラバ!」で第152回直木三十五賞を受賞。第12回本屋大賞2位にも選ばれ、現代の作家として確固たる地位を築きました。
現在も小説からエッセイ、短歌や絵本、対談やTV出演等、幅広い執筆活動を行っています。

「円卓」のおおまかなストーリー

2011年に発売された西加奈子さんの小説。
偏屈で孤独を愛する小学三年生の琴子の成長を描いています。

「円卓」という小説は家族に愛されながらも孤独を愛する小学3年生の琴子の生活を描いた作品です。
琴子は通称「こっこ」というあだ名で呼ばれていて、祖父、祖母、父、母、三つ子の姉との8人家族で暮らしています。
琴子は自分の中に孤独を感じて生きていて、家族全員に愛されて暮らす生活に辟易していました。
そんな生活の中で、ものもらいになって眼帯をしている香田めぐみさんをうらやましがったりして、自分の中にも孤独を感じた琴子は香田めぐみさんの真似をして、眼帯をしたりします。理由は「なんかかっこいい」からです。
また学級委員の朴くんがパニック状態になり不整脈を起こすと、琴子も真似をして、教室の真ん中でしゃがみこんだりします。しかし先生に「おまえちゃうやろ」と仮病であることを見破られてしまいます。
自分自身が教室の真ん中でしゃがみこんでいる状態でいることを、心の中で「本当にくるしく」感じている琴子は自分自身の気持ちを不思議に思っていました。
実際に不整脈を起こした朴くんのお見舞いにいったときには「僕はもう死ぬって、思ったで。」という言葉を聞き、素直に「格好ええやん」と思うのが琴子なのです。

このように、琴子は出会う人々から「ことば」を吸収していきます。そして、人から与えられた「ことば」をそのまま放ってしまうのではなく、自分の中に少しづつ、「ことば」をため込んでいくのです。
そして、それが豊かなイマジネーションに繋がり、琴子は少しずつ、自分の中にある孤独の本質に気づいていきます。
また、「円卓」には奇妙な人物が登場します。それは「鼠人間」です。琴子は「鼠人間」のことを理解で出来ません。「鼠人間」のことを理解出来るのは初めは読者だけなのですが、読者にさえ、だんだんと良くわからない存在に変容していきます。
読者である私たちもいつのまにか、琴子と同じように「ことば」を吸収していったため、「鼠人間」の存在にぎょっとしてしまい、理解できなくなってしまうのです。

小説の最後には琴子は友達の強ばってしまい、しなやかさを失ったこころを自分の「ことば」で解き放つことになります。
そのことで、琴子は自分の持つ言葉の強度を知るのです。
それは琴子が自分の持つ孤独を知ることが出来たからであり、人の孤独を知ることが出来たからです。
自分の持つ「ことば」が未だにどのような意味を持つかわからない琴子が少しづつ、自分の中で発酵していき匂いを持つ「ことば」となっていくのが感じられるのが、「円卓」の魅力です。

鼠人間と琴子。鼠人間は明らかに琴子が今まで接してきた人間とは違う人間です。しかし琴子は鼠人間さえも肯定しようとします。
これこそが文学の力です。

「円卓」の中の「ことば」

小説「円卓」の持つ魅力の一つに「ことば」があります。私は関西圏の人間ではないので(は言い訳になってしまいますが)、関西弁や大阪弁の詳しい使い方や、その言葉の歴史については詳しく知りません。
しかし、西加奈子さんの使う「ことば」の一つ一つには、人がいつのまにか自分自身に対して、かけてしまった呪いを解き放つ、そんな魅力を含んでいます。
これは一読者である私の想像ですが、西加奈子さんの出生と関係するのではないでしょうか。
生い立ちに戻ってしまいますが、西加奈子さんはイランのテヘランで生まれました。これは日本に生まれ、日本から出たことがない私からすると驚くような事実です。というか殆どの日本人は日本で生まれているはずです。
しかし当たり前ですが日本人(というか国籍や肌の色を別にしても)でも海外で生まれることはありますし、ついでに当たり前ですが西加奈子さんにとって、イランのテヘランで生まれたことは当たり前のことです。
私も西加奈子さんがイランのテヘランで生まれたことや、私がいまだ海外に行ったことがないことも偶然でもなく、当たり前に起きている事実なのだと思います。
それよりも私が吃驚しているのは、西加奈子さんがその後、大阪で育ったことです。
正直、私はうらやましく思いました。それは私が好んで読んでいた小説家でありミュージシャン、俳優業と多彩な才能を発揮する町田康さん(パンクバンド「INU」を結成した当初は「町田町蔵」と名乗っていました。)の出身地と同じだからです。
大阪弁や関西弁圏の中で育ったからこそ感じられる「ことば」の持つ魅力。それは普段私たちがTVなどで見ることが出来る漫才や芸能等に限らない、独自の文化をもった世界に対するあこがれです。
「円卓」における琴子の持つ言葉もまた、西加奈子さんの持つ言葉と非常に近いものがありながら、琴子オリジナルのものではなく、周囲の環境や「ことば」によって育まれイマジンされた言葉でした。
そして、それは西加奈子さん自身が、自分の言葉をため込むことで生まれた孤独な「ことば」と、とても近くて遠い何かなのではないでしょうか。

「円卓」のオリジナリティ

さらに小説「円卓」の魅力について、もう一つは琴子の境遇が琴子の持つオリジナリティを育んでいることです。
前述した内容と矛盾しているように思う方もいるかもしれないので、オリジナリティについて説明をします。
このオリジナリティとは、それを持っている本人さえも企まざることで生まれたものです。西加奈子さんの場合はテヘラン生まれ大阪育ちという経験が現在の西加奈子さんの持っているオリジナルな視点を持つことができるのでしょう。
どこかで、自分が外側の人間だという無意識の意識(不思議な表現ですが今のところ、このような表現をすることにします。)が、西加奈子さんにはあるのではないでしょうか。
以前TVのインタビューで西加奈子さんは何人かの作家たちと鼎談をしている時に「今後、文学は必要とされないかもしれない。しかし一人でも文学を必要とする人がいるのならば、書く意味があると思う。」と語り「私はジョン・アーヴィングが好きで、本屋に行くと必ず「ジョン・アーヴィングの新刊やん。絶対面白いやん。面白いに決まっているから買うやん。と思う。」と話していました。
私はこの話を聞きながら、非常にユーモアがある発言であるとともに、文学と真摯に向き合っているからこそ、出てきた言葉だと思いました。
むしろ現代を代表する作家とするならば、あまりに全う過ぎるように思います。
西加奈子さんの作家としてのオリジナリティと普遍性が、小説「円卓」の冒頭を想起させます。琴子の家族が中国料理店にある円卓を囲んで団らんをしていると「めっちゃ円卓やん」というツッコミ(?)が入ります。
この「円卓であること」というツッコミから読者である私は「円卓とは何ぞや?」と考えました。
そこには「『円卓』とは何なのか」や「『円卓』というタイトルが誰にとってどのような意味を持つのか」といった考察よりも、「この小説が『円卓』というタイトルであること」の重要性を帯びていきます。
そこで「『円卓』がタイトルであること」について考えていきたいと思います。

西加奈子さんの小説「円卓」を原作にして、行定勲さんが監督した映画作品。主演に芦田愛菜さんを迎えて製作されました。

「円卓」というタイトルと「円卓の騎士」の関係性

小説「円卓」はなぜ「円卓」というタイトルなのでしょうか。
私は円卓という言葉を聞くと、自然と「円卓の騎士」を思い浮かべます。
「円卓の騎士」とはアーサー王の伝説に登場する騎士たちを指します。アーサー王とアーサー王に使える騎士は、一つの丸いテーブル(円卓)を囲むことで上下関係はなく、皆同じように平等であることを象徴しているのです。
そして「円卓」に招かれるには空席がなければならず、その席に着くためには、自身の武勲を示さなければならないそうです。
有名な「円卓の騎士」にはランスロット卿やガウェイン卿がいます。ちなみに映画の「キングスメン」や「007シリーズ」に登場するスパイたちも「円卓の騎士」に准えて表現されています。
「円卓の騎士」は昔からある神話なので「平等」であることの象徴表現としてわかりやすく、物語の中に取り入れやすいのでしょう。
そこで私も小説「円卓」を「円卓の騎士」の力を借りて解釈したいと思います。
小説「円卓」では琴子はあらかじめ家族という円卓の席についていました。その家族の中で末っ子であり、周囲に愛されている存在でした。「円卓」の中にいる間は、その当たり前に受けられる愛情や恩恵には気付きにくいものです。
琴子は当然子供ですから、「円卓」の外に遊びに行き、経験を積んできます。経験を積んでもまた「円卓」という家族の中に戻る場所があることが小説「円卓」の本質なのです。
つまり小説「円卓」では琴子は「ことば」において、孤独だったのです。その孤独な「ことば」を手に入れた琴子は、自分の在り方が孤独であることに気づきます。
私たちは「円卓」のなかで琴子が家族に「かわいい」といわれるたびに、違和感を感じます。それは琴子が本当は可愛いとか、本当は可愛くない等といった細かいことではなく、琴子が孤独だからです。
その「無意識の意識」こそが「ことば」の本質なのではないでしょうか。
なので小説のタイトルが「円卓」であることの重要性は西加奈子さんが家族や環境や現実や世界を「円卓」と捉えていることによるのです。

「円卓の騎士」は、アーサー王物語においてアーサー王に仕えたとされる騎士の総称です。
その数は12人とされていますが、定かではありません。トマス・マロリーの「アーサー王の死」には「300人の円卓の騎士」という表現もあり、広義ではアーサー王配下の騎士は全て「円卓の騎士」と呼ぶ場合もあるそうです。

まとめ

いかがでしたでしょうか。
「円卓」は作家の目を持った西加奈子さんの小説の魅力が感じられる作品です。琴子は小学3年生であり一般的に、年齢から考えても子供です。しかし琴子のもつ世界への違和感はイランのテヘラン、エジプトのカイロから大阪に移り住んだ西加奈子さんの姿が投影されているのではないでしょうか。
その投影されている影は日が沈むほどに大きくなり、長くなっていきます。
現在作家として執筆活動を行っている西加奈子さんの「こっこ」時代は果たして、小説「円卓」のような琴子のようだったのかというと、一読者たる私からしてもそんなことはなく、やはり孤独な子供だったのでしょう。
小説「円卓」は非常に面白い小説です。子供が主人公ですが大人でも楽しめる内容になっています。それは言葉の持つ魔術的魅力があふれているからです。
休暇のときに小説「円卓」を読むことをお勧めします。
いつもの生活とは違った視点を持つことができますし、なおかつその世界に溺れる楽しみも得られるからです。

INTRODUCTION of THE WRITER

家出猫町
name. 家出猫町
家出をして猫町に住みたい。

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