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受難の刀 「 赤羽刀 」

第二次大戦が終戦して間もなく、GHQは日本での武装解除の一環として全国に刀などの武器類の提出を命じました。その多くが海洋に投棄されるなどして処分されました。しかし、接収された刀剣の中で投棄処分を免れた物も少なからずありました。それらは現在、持ち主不明の「赤羽刀」として伝わっています。

GHQ

GHQは「連合国軍最高司令官総司令部」の通称です。進駐軍とも呼ばれました。
職員はアメリカ合衆国の軍人と同国の民間人、イギリスやオーストラリアの軍人などで構成され、第二次大戦終結に伴うポツダム宣言を執行するために日本で占領政策を実施しました。

第二次大戦終結と武装解除

日本は1945年8月14日、全日本軍の無条件降伏などを求めたポツダム宣言を受諾、同年9月2日にこれに調印して第二次世界大戦は終結しました。
日本軍の武装解除が行われ、多くの武器が接収されました。戦闘機、戦車、重火器類や小銃はもちろんのこと、軍刀や民家の刀剣類などもその対象とされ、ガソリンで焼却したり海洋投棄されるなどして処分されました。

進駐軍が探しに来る

武装解除は日本軍の武器の接収だけに留まることはありませんでした。
一般の民家にある家宝とされていた刀剣類も接収の対象とされ、民家の屋根裏まで捜索された例もあったようです。進駐軍を恐れた市民の間では「進駐軍が金属探知機で隠している武器を探しに来る」という噂が広まり、その結果刀剣を切断し武器とみなされない鉈などに改造するなど、所有者自ら廃棄、損壊してしまう例もありました。
武装解除はもはや占領政策の域を超え、略奪という形の「刀狩り」の様相を呈していました。

その名は「赤羽刀」

関東及び東海地方の民家から接収された刀剣類は20万本を超える膨大な数でした。それらは当時、東京都北区赤羽に存在した米陸軍第8軍兵器補給廠に集められました。それらはその後、関係者の努力により美術品と認定された物のみ返還が許されました。刀剣類は20数名の審査員達によって判別され、1947年に美術品と認められた約5600本は東京国立博物館に搬入され、それ以外の美術品と認められなかった物は米軍により処分されました。
約5600本の内1132本が所有者に返還されましたが、4576本が所有者不明として国の所有となり、東京国立博物館の収蔵庫に保管されることとなりました。
1995年、接収刀剣類の処理に関する法律が成立し、翌年2月から施行されました。文化庁が元所有者への返還請求を受け付け、7本の刀剣類が元所有者やその遺族に返還されています。
そして未だに残る刀剣類は米陸軍第8軍兵器補給廠があった赤羽にちなんで「赤羽刀」と呼ばれ現在に伝わります。
1999年、3209本の赤羽刀が転売せず一般公開することを条件とし、全国191の公立博物館に無償譲与されました。

失われた国宝

終戦直後の混乱の中で行方不明となった刀剣類の中には国宝指定を受けた物もあります。
その1つが鎌倉時代末期の刀工「来国俊(らいくにとし)」によって作られた大太刀の「蛍丸」です。
南北朝時代の武将である阿蘇惟澄が佩用したと伝えられ、惟澄が多々良浜の戦いに敗れるとその夜、激戦で刃こぼれした刀に蛍が群がり刀を直す夢を見た。目が覚めて刀を見てみると本当に直っていたという伝説から蛍丸の名が付いたとされています。阿蘇氏に家宝として伝わり、阿蘇神宮の宝刀として秘蔵され1931年に国宝に指定されました。
第二次大戦終結後、行方不明となりました。進駐軍による接収を避けるため密かに阿蘇神宮から運び出されどこかに隠されたとする説や、進駐軍に接収され処分されたとする説がありますが記録が無いため正式な経緯については未だに分かっていません。

全てを奪い去ってしまう戦争

戦争は大切な家族を奪い去るだけでなく、家に代々伝わってきた大切な物、心の拠り所となっていた場所まで奪って行きます。戦争で得をするのはほんの一握りの人間だけで、それ以外の全てを無にしてしまいます。
この様な悲劇は現在も世界各地で起きています。

INTRODUCTION of THE WRITER

守屋空山
name. 守屋空山

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