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メゾンマルジェラ(Maison Margiela)鬼才ジョン・ガリアーノを復帰させた、カリスマブランドに迫る

1988年のデビュー以降、熱狂的なファンを持つ、カリスマブランドのメゾンマルジェラ。トレンドに逆行するかのような、反骨精神漂う、独特のデザインは、多くのファッションエディターや、ファッショニスタに衝撃を与えました。手作業をふんだんに取り入れた、アート作品のような、ウエアはそれまでのファッションの常識を覆しました。ディーゼルのレンツォ・ロッソが2002年より、メゾンマルジェラの資本を支え、2009年には、マルタン・マルジェラ自身が、デザインに関わっていないことを発表、ファッション界に激震が走りました。マルタンマルジェラなき、メゾンマルジェラのクリエーティブディレクターに就任した人物が、鬼才ジョン・ガリアーノ。ジョン・ガリアーノの復帰の舞台が、メゾンマルジェラであり、異質としか言えない、ジョンガリアーノが手掛ける、メゾンマルジェラ。今ファッショニスタの関心が高い、メゾンマルジェラを徹底解析いたします。

マルタンマルジェラなき、メゾンマルジェラ(Maison Margiela)

天才デザイナー不在の、カリスマブランドの行方は?

90年代、ファッション界に大きな衝撃と、モードという概念まで、覆したブランドが、マルタン・マルジェラです。トレンドとは逆行するかのような、反骨精神漂う、itemをリリースし、賛否両論を受けた、レジェンドブランド。

様々な意見が飛び交う中、当の本人である、マルタン・マルジェラは、マイノリティーに、表現すべきウエアを淡々とリリース。

マルタン・マルジェラが創り上げた、前衛的で、反モードスタイルを掲げる、アートさならのウエアを、理解できなかった、古い頭の、被服評論家は、徹底的に、マルタン・マルジェラというブランドを非難。

結果、マルタン・マルジェラのウエアの素晴らしさが、理解できなかった、被服評論家は、一線を退くことになります。

高感度な、ファッションエディターや、若きファッショニスタは、今まで見たことのないウエアに、戸惑いながらも、その圧倒感に、のめりこみます。

モードでも、ストリートでもない、何処にも属さない、”マルタン・マルジェラ”としか、表現できない、ウエアをリリースする、カルト的な、雰囲気さえ漂う、新生ブランドに、若きファッショニスタは、陶酔します。

「パリで、コムデギャルソンのショーを見たときと、変わらないほどの衝撃を受けた」と有名セレクトショップの、レジェンドバイヤーは、マルタンマルジェラを、絶賛しました。

コムデギャルソンのように、”マルタン・マルジェラ以前と以降”という言葉が、ファッション業界では当たり前に、使われるようになります。

マルタン・マルジェラの登場は、後のデザイナーにも、かなり大きな影響を与えています。孤高のカリスマブランドである、マルタン・マルジェラを牽引した人物が、天才デザイナーである、マルタン・マルジェラです。

モード界のトップに君臨し続ける、唯一無二のカリスマブランドから、衝撃の告白があったのが、2009年。

現在、メゾンマルジェラを資本的にバックアップし、事実上、親会社である、ディーゼルの創業者である、レンツォ・ロッソはマルタンマルジェラが、デザインに、関わっていない事を発表します。

巨大なアパレルグループを率い、総資産30億ドル以上とも言われえる、大富豪の告白で、ファッション界には、激震が走りました。

マルタン・マルジェラは少なくとも、数年間は、デザインチームによって、コレクションが行われてい様です。2008年には、自身でローンチしたブランドである、マルタン・マルジェラを去っていた、天才デザイナーのマルタン・マルジェラ。

レンツォ・ロッソによる、新体制の、マルタン・マルジェラがスタートした、2002年。マルタン・マルジェラは、収益をなんと、5倍以上に増加させることに成功しました。

当然、メゾン始まって以来の、莫大な、収益をもたらすことになった、マルタン・マルジェラ。

しかし、商業的な成功よりも、クリエイティビティに重きを置きたかった、マルタン・マルジェラとレンツォ・ロッソの間に、軋轢が乗じたことは、明らかです。

2002年以降、徐々に、マルタン・マルジェラは、デザインチームとの距離をとっていったように、感じます。

2009年のレンツォ・ロッソのコメントから5年間、デザインチームによる、マルタン・マルジェラを発表し続けました。

デザインチームだからこそ、実現した、H&Mとのコラボレーション

2012年にH&Mとのコラボレーションブランドとして、マルタン・マルジェラが登場。マルタン・マルジェラがH&Mとコラボレーションで、ウエアをリリースすると言うニュースは、世界中で話題となりました。

このコラボレーションを強く望んだのは、レンツォ・ロッソだったと言われています。マルタン・マルジェラが、当時もデザインに関わっていたら、このコラボレーションは、実現しなかったとも言われています。

結果として、H&Mとマルタン・マルジェラのコラボレーションは、歴代のデザイナーズコラボレーションの中でも、ベスト5に入るほどの、人気を博したようです。

メゾンマルジェラ(Maison Margiela)の現在のデザイナーは?

ジョン・ガリアーノ(John Galliano)

天才デザイナー不在のまま、コレクションを行ってきた、マルタン・マルジェラ。待ちに待った、マルタン・マルジェラのクリエイティブ・ディレクターが2014年についに発表されました。

その人物は、ジョン・ガリアーノ。自身のブランドである、ジョン・ガリアーノをローンチし、グラマラスでセクシャルな、ウエアで、時代の寵児となったデザイナーです。

クリスチャンディオールのオートクチュールは、ジョン・ガリアーノの手が入らなければ、閉鎖にまで追い込まれていたと言われています。

ジョンガリアーノという、グラマラスで、セクシャルなスタイルを、ファッショニスタに根付かせ、クリスチャンディオールの危機を救った、鬼才が、マルタン・マルジェラのデザイナーとして復帰しました。

才気溢れる、天才デザイナーである、ジョン・ガリアーノでしたが、2011年に、泥酔状態で、差別的発言をし、警察に身柄を確保、クリスチャンディオールと、自身のブランドである、ジョン・ガリアーノからも解雇されます。

鬼才デザイナーの呆気ないほどの、ファッション業界追放には、きな臭さを感じた、ファッション関係者がいたことは事実です。

真相は闇の中ですが、クリスチャンディオールが、ジョンガリアーノとの契約を切るために、仕掛けた、トラップだったとも言われています。

表舞台から姿を消した、ジョン・ガリアーノは、沈黙の3年間を過ごし、マルタン・マルジェラと契約。ジョン・ガリアーノが、正式にファッション界にカムバックした、ステージが、マルタン・マルジェラでした。

2015年から、ジョン・ガリアーノによるマルタン・マルジェラがスタート。ブランド名をメゾンマルジェラに改めました。

違和感さえ感じる、ジョン・ガリアーノによるメゾンマルジェラ

多くのファッショニスタや、ファッションエディターは、ジョン・ガリアーノによる、マルタン・マルジェラに、驚きを隠せなかったはずです。

2013年ごろから、ジョン・ガリアーノの復帰の話は、ファッション業界では、まことしやかに囁かれていました。

一部では、マルタン・マルジェラのヘッドデザイナーに、ジョン・ガリアーノが指名されるのでは?と言う、都市伝説的な、噂も流れていました。しかし、あくまで噂。

しかし、その噂が、現実となり、ファッション界に衝撃を与えました。スキャンダラスな、不祥事で、ファッション業界を追われることとなった、ジョン・ガリアーノですが、彼が天才デザイナーであることは、世界中の富裕層や、ファッションエディターが認めています。

自身がアイコンでもあった、ジョン・ガリアーノとブランドタグにさえ、ブランド名を入れない、マルタン・マルジェラ。別方向を向く、二人の天才の足跡。

”アバンギャルドな服”、マルタン・マルジェラと、ジョンガリアーノの共通点と言えば、それ以外見当たりません。

しかし、前衛的なデザインにしても、マルタン・マルジェラと、ジョンガリアーノでは全く別物です。手作業による、ユーズド加工や、ヴィンテージ生地を用いて仕上げる、アバンギャルドなウエアや、ペンキを塗った、ユーズドデニムをリメイクする、従来のモードウエアとは、かけ離れた、手法で表現される、マルタン・マルジェラのプロダクツ。

90年代初頭に、一世を風靡した、グランジスタイルの、火付け役ブランドでもあります。

一方、ジョンガリアーノは、グラマラスで、ドラマチックとも表現される、デザインを得意とするデザイナーです。オートクチュールのような、ヨーロッパの貴族を彷彿させる、瀟洒なデザインのドレスや、クラシカルでエレガントなタキシードやスーツは、感度の高い、富裕層から高い評価を得ていました。

高いテーラリング技術と、グラマラスで、ドラマチックな感性により、ビッグブランドの、クチュールデザイナーに指名された、ジョンガリアーノ。

明らかに方向性の違う、稀代の天才デザイナーが、共同で、一つのブランドを、作るような感覚の、ジョン・ガリアーノによる、メゾンマルジェラ。

あまりに、異質な組み合わせに、違和感を感じた、ファッションエディターも、少なくありませんでした。

メゾンマルジェラの、クリエイティブ・ディレクターとして、ジョン・ガリアーノを指名したのは、勿論、レンツォ・ロッソ。

大きな話題となることは、計算の上での抜擢でした。

嘗ての、グラマラスで、セクシャルな、ジョン・ガリアーノ色を強く打ち出した、メゾンマルジェラの誕生になるかと、思いきや、比較的マルジェラより。

しかし、従来のマルタン・マルジェラのイメージを大きく覆す、ジョン・ガリアーノによる、新体制の、メゾンマルジェラであることは、はっきりと分かる、コレクションを発表しました。

ジョン・ガリアーノの、デザインと特徴でもある、テーマを明確に示した、メゾンマルジェラの、コレクションは、マルジェラと言うブランドの輪郭を、はっきりと、させたように感じます。

ジョンガリアーノが得意とする。美しいカッティングは、ビッグブランドの、オートクチュールさながらでした。

ジョンガリアーノによる、メゾンマルジェラに対して、違和感は、確実に感じます。しかし、その違和感も含め、メゾンマルジェラを、魅力的に仕上げていることは、間違いありません。

つまり、心地よい不協和音を奏でる、ジョン・ガリアーノによる、メゾンマルジェラ。天才デザイナーの復活を、堂々と表明した、コレクションでした。

メゾンマルジェラ(Maison Margiela)を牽引するジョン・ガリアーノとは?

1960年生まれの、イギリスのファッションデザイナー

ユダヤ人に対する、差別発言により、拘束されるという、スキャンダラスな、話題で一時期、時の人となった、ジョン・ガリアーノ。

酒に酔っていたとはいえ、ビッグブランドのクリエイティブ・ディレクターである、著名なデザイナーにしては軽率な行動であり、それにより、職を失ったことについては、自業自得であり、身から出た錆です。

ジョン・ガリアーノが、トラップに掛かったという、見方もできなくはありませんが、罵声を浴びせたのは、ジョン・ガリアーノで間違いありません。

しかし、このスキャンダルで、ジョン・ガリアーノの才能まで、枯渇させることは、できませんでした。

現在、メゾンマルジェラのクリエイティブ・ディレクターを務める、ジョンガリアーノは、1960年に、ジブラルタにて生まれます。

当時のジブラルタは、英国の植民地でした。ジョン・ガリアーノが、6歳のときにロンドンへ移住します。

イギリスの名門、セントマーチンズのテキスタイル科へ入門、後にモード科へ移籍します。セントマートンズのモード科を主席で、卒業します。

卒業制作であるコレクションが、ロンドンの老舗セレクトショップ、ブラウンズのショーウィンドウを飾り、話題となります。

ブラウンズとは、1970年から続く、ロンドンのファッショニスタ、ご用達ショップです。グッチやプラダ、フェンディなどの、ラグジュアリーブランドから、アミリや、J.Wアンダーソン等の話題のブランドが揃う、高感度なセレクトショップとして知られています。

アレキサンダー・マックイーンを、世界に浸透させたショップとしても有名です。

レジェンド的存在の、ロンドンの有名セレクトショップと5年契約を結んだ、ジョン・ガリアーノは、卒業と同時に、自身のブランドをローンチすることになります。

1985年にロンドンコレクションデビュー

数多くの、新進デザイナーを育ててきた、ブラウンズと契約を結んだ、ジョン・ガリアーノは、1985年にロンドンコレクションデビューを飾ります。卒業と同時に、自身のブランドを持ち、コレクションデビューを飾ると言う、順風満帆なスタートのように見えますが、好調だったのは、滑り出しのみでした。

ジョン・ガリアーノは、アバンギャルドなデザインが特徴のデザイナーです。英国仕込の美しいカッティングのテーラードジャケットや、スーツにも定評のある、ブランドですが、時代が、彼のデザインを求めていませんでした。

一部の富裕層や、ファッショニスタからは、絶大な支持を得た、ジョン・ガリアーノでしたが、奇抜で、時代錯誤なウエアを作る、新進デザイナーと言う評価が、付いて回ります。

才能はあるが、売れる服が作れないデザイナーと言うレッテルを貼られ、スポンサーは、ジョン・ガリアーノから離れます。

コレクションはおろか、自身が求める、生地さえ買えない時期が続きます。意外なことに、90年代半ばまで、ジョン・ガリアーノは、自身の部屋さえ持つことができなかったと言います。

不遇の時期を乗り越え、ジョン・ガリアーノの転機となるのは、ロンドンから、パリへと活動の場を移して4年の年月が流れた頃です。

ビッグブランドの、デザイナーに、ジョン・ガリアーノが抜擢されます。

ジバンシーからクリスチャンディオールのデザイナーへ

ジバンシーのデザイナーである、ユーベル・ド・ジバンシィが1995年のオートクチュールコレクションを最後に、デザイナーの職を離れます。

既に、ジバンシーの経営は、フランス最大のコングロマリットである、LVMHが行っていました。ジバンシーの後任デザイナーとして、白羽の矢が立ったのが、ジョン・ガリアーノでした。

ジバンシーのデザインを、ジョン・ガリアーノが行うと言う異例の抜擢に、ジバンシーの顧客からは、批判めいた声も上がりました。

ジバンシーのコレクションを手掛けたのは、2シーズンのみ、しかし、その後、クリスチャンディオールのデザイナーに就任します。

クリスチャンディオールのオートクチュールデザイナーとして、ジャン・フランコ・フェレの後を継いだ、ジョン・ガリアーノ。

しかし、ジャン・フランコ・フェレへの敬意は、全く感じられず、ジョン・ガリアーノが作る、新たな、クリスチャンディオールが、産声を上げました。

クラシカルで、クリスチャンディオールの、伝統を重んじた、行儀のいい、ジャン・フランコ・フェレの創り上げた、クリスチャンディオールとは、全く違う、アバンギャルドで、モードな、ジョン・ガリアーノ流のクリスチャンディオールの誕生に、戸惑いながらも、ファッションエディターは大絶賛、ジョン・ガリアーノの才能を、世界中に証明することに成功しました。

ジョン・ガリアーノが創り上げた、クリスチャンディオールは、世界中のセレブレティーの間で、爆発的なヒットを記録しました。

ジョン・ガリアーノが、クリスチャンディオールを再構築した結果、飛躍的に、ブランドの収益を伸ばすことに成功しました。

クリスチャンディオールにとって、ジョン・ガリアーノは、救世主であると言っても、過言ではありません。

2011年の逮捕劇がなければ、現在もクリスチャンディオールのクリエイティブディレクターであった可能性は、大いに高いかと思います。

しかし、ジョンガリアーノが、クリスチャンディオールを、解雇になることがなければ、ジョン・ガリアーノによる、メゾンマルジェラと言う奇跡を、目の当たりにすることは、なかったはずです。

メゾンマルジェラ(Maison Margiela)を創り上げたマルタン・マルジェラとは?

ファッションの未来を開拓したインフルエンサー

現在のメゾンマルジェラの前身である、メゾン・マルタン・マルジェラは、デザイナーである、マルタン・マルジェラによって、設立されたブランドです。

1988年パリにてローンチされた、メゾン・マルタン・マルジェラ。デザイナーである、マルタン・マルジェラは、1957年にベルギーで生まれます。

幼い頃から絵が得意な子供で、16歳から本格的にデッサンを学びます。しかし、アートの道には進まず、マルタン・マルジェラが選んだのは、ファッションの世界でした。

名門、アントワープ王立美術アカデミーのファッション科に入学、同期に、ダーク・ビッケンバーグ、ドリス・ヴァン・ノッテン、アン・ドゥムルメステール等が在籍しており、後に、アントワープ6と称されます。

マルタン・マルジェラのキャリアのスタートは、ジャンポールゴルチェの、アシスタントから始まります。

自身のブランドである、マルタン・マルジェラをローンチするまでの間、ジャンポールゴルチェのアトリエで、経験を積みます。

同期である、ダークビッケンバーグも、ジャンポール・ゴルチェの下で、経験を積んでいた一人です。

1989年にパリコレデビュー。デビューコレクションには、姿を見せていますが、それ以来、コレクション会場に、姿を見せることは、殆どなくなり、”匿名のデザイナー”とも称されるようになりました。

ワークウエアや、ミリタリーウエアを、イメージさせるプロダクツや、デストロイ加工やペンキで塗り固めたデニムウエアをリリース。当時のモードの常識を覆す、スタイリングと、ガーメントを発表し、被服評論家を大いに悩ませます。

モデルの頭から、布を被せ、まともにウォーキングさえできないショーや、音を一切使わない、無音でのコレクションを開催するなど、アヴァンギャルドな演出で話題となります。

マルタン・マルジェラの反モードを掲げる、コレクションは、現在のモードスタイルの、パイオニアとなり、90年代、最も影響力のあるデザイナーとして、ファッションエディターや、ヤングファッショニスタを陶酔させました。

公の場に姿を見せることなく、ミステリアスな、マルタン・マルジェラの存在が、アヴァンギャルドで、アルチザンな、マルタン・マルジェラのガーメンツを、より魅力的なモノへと、昇華させていたことは間違いありません。

当初は白のタグを縫い付けただけの、ブランドネームさえないマルタン・マルジェラ。後に”カレンダータグ”と呼ばれる、数字が明記された、タグに変更になりますが、ブランド名が記入さる事の方が稀です。

この徹底した匿名性が、マルタン・マルジェラ自身の、アーティスティックで、アルチザンな服作りに集中している証明のようにも、見受けられます。

職人は、納得のいく作品を世の中に、リリースすることができればいい。つまり、マルタン・マルジェラ自身は、トレンドを作ることではなく、作品つくりに没頭したかったように感じます。

マルタン・マルジェラのウエアは、ガーメンツではなく、アート作品、着ることが可能なアート作品だと賞賛する、ファッションエディターは世界中に存在します。

自身はメディアに姿を見せず、ブランドネームさえ、主張しない、インフルエンサーである、マルタン・マルジェラ。

ファッショニスタに、カリスマ的人気を博すと共に、ビッグブランドからも注目を集めます。

エルメスのデザイナーとしての大抜擢

1997年から2003年まで、マルタン・マルジェラは、エルメスのレディースの、プレタポルテラインのクリエイティブ・ディレクターを務めます。

フランスの最高峰メゾンとも呼ばれる、エルメスのデザイナーに抜擢された、マルタン・マルジェラ。マルタン・マルジェラによる、エルメスは、ラグジュアリーな、リアルクローズを追及した、ノーブルでモードなガーメンツが、揃い、エルメスの顧客は勿論、ファッショニスタからも絶賛されました。

稀代のインフルエンサーが手掛けた、フランスを代表する、ラグジュアリーメゾン。今でも、マルタン・マルジェラが手掛けた、エルメスの、ガーメントやプロダクツは、収納室に、保管されているとの事です。

マルタン・マルジェラの現在は?

自身のブランドを離れ、約10年の年月が経ちますが、マルタン・マルジェラの現在の活動については不明です。

元々、メディアに姿を見せることも、インタビューも少なかった、マルタン・マルジェラ。1997年以降、公式の写真は、発表されていないとも言われています。

マルタン・マルジェラの、ファッション界への復帰を、心待ちにしている、ファッションエディターや、ファッショニスタが多いことは事実です。

メゾンマルジェラ(Maison Margiela)を率いる鬼才

変化を楽しむ天才デザイナーが作る、新たなマルジェラの未来

売れない服を作るデザイナーとして、非難を浴びながらも、老舗ラグジュアリーブランドを、見事なまでに、よみがえらせた、天才デザイナーである、ジョン・ガリアーノ。波乱万丈な彼の人生さえも、ジョン・ガリアーノが手掛ける、デザインに、生かされていると思えてしまいます。

クリスチャンディオールの、ショーのフィナーレでも、自身のブランド、ジョン・ガリアーノのショーにも、トレンドのファッションに身を包み、必ず、登場していた、ジョン・ガリアーノ。

ジョン・ガリアーノ自身が、ブランドの顔であり、アイコンだと言っても、過言ではありませんでした。

しかし、メゾンマルジェらのデザイナーに就任してから、明らかに、露出の減った、天才デザイナー。

メゾンマルジェラの、デザイナーとして、ファッション界に復帰した、ジョン・ガリアーノからは、様々な思いや、心境の変化が伺えます。

敢えて、姿を見せないことが、今のジョン・ガリアーノにとっては、心地がよく、エキサイティングなのかもしれません。

天才デザイナーの復帰を祝いつつ、今後のメゾンマルジェラの変化からも、目が離せません。

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INTRODUCTION of THE WRITER

hansu719
name. hansu719
ショップバイヤー、スタイリストを経てフリーライター兼シンガーソングライターが生業です。ハイブランドからストリートstyleまでラグジュアリーな香りのするstyleが好みです。

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